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吉祥寺

 徳和にあり、山号は徳和山、真言宗の寺である。本尊は毘沙門天である。徳和の七割ほどがこの寺の檀家である。それ故寺と集落との関係は深く、寺の行事に集落が、また集落の行事に寺が深く関わっている。
 四月十八日の毘沙門天祭りは、村の祭りとして定着しており、徳和の春祭りにふさわしい。このおり近在からの参詣者も多く、中には毘沙門講を組織する人々も少なくない。この日は護摩が焚かれ、稚児行列があり、かつては丑の刻参りも行われた。また毘沙門天は蚕神としても信仰されて、養蚕の盛んな時期には近在からの参詣者が後を絶たなかったという。祭りは、檀家総代六名と世襲の護摩総代三名が中心になって執り行う。
 また、部落の秋祭り、すなわち諏訪神社の祭典(十月十日)には、住職が出向き祭事を執り行うことがかつてはあった。霜祭、風祭は、住職が現在も執り行っている。
 墓地は境内にはないが、寺族の墓地と思われるものが徳和川の対岸にあり、草むらの中に五輪塔が数基祀られている。また寺所有のゴリツブレといわれる所にも寺関係者の五輪塔が並んでいる。徳和の共同墓地が上組が水久保に、下組が洞にある。近年、寺固有の墓地もお寺山に新設され、集落内外の家々が利用している。
 県指定のしだれ桜である新羅桜があり、樹齢三百年といわれている。

​徳和山吉祥寺の再興

 徳和に所在する徳和山吉祥寺は、承元年間(1207~11年)、武田五郎信光による創建と伝える真言宗の古刹である(「甲斐国志」ほか)。当寺に伝存する棟札は、永禄八年(1565年)三月、「武田晴信」が「家門繁栄」「武運長久」を祈り、「大檀越」となって再興したことを伝えている。しかし晴信は、永禄二年五月には信玄を称していて、この点疑問が生ずる。ところで、永禄十一年三月、越後(新潟県)への出兵を控えた信玄は、吉祥寺の本寺である放光寺(甲州市)や法善寺(若草町)ほかの甲斐国内の真言宗寺院11カ所に対し、戦勝の祈願を依頼していて(東八代郡一宮町 慈眼寺文書)、彼が同宗に深く帰依していたことは確かである。棟札には、「塔主」として周悦、「本願」として周珍の二名の僧侶の名が記されており、「晴信」の名を奉じつつ、彼らが広く勧化に努め、再興をなし得たと考えるのが適当であろう。

夢窓国師と毘沙門天

 後醍醐帝の喜歴年中の盛夏、十九歳の青年僧が、乾徳山の山頂近くの大自然の岩窟に入り、座禅を始めました。食料として持ってきたのは半切れの干し柿だけでした。すると突然雛僧が岩窟を訪れて、青年層に言ったのです。
「私には大願があるので、あなたに毎日干し柿一個を差し上げたい。あなたの干し柿と合わせて一個半となります。そうしなければあなたは悟りを得ないうちに、命を落とすでしょう」と。青年僧はこれを聞いて、不思議なことと思い、雛僧に「お前は年少だが殊勝なことを言う。しかし出家は理由のない供物は受けることができません。私の弟子になりなさい」と言いました。雛僧はそれを快諾して、師弟の契りを結んだのです。雛僧は道満という法名と木綿の袈裟を授けられ、雨の日も風の日も干し柿一個を手向けて、九十日の間が過ぎました。
 修行の甲斐があって悟りを開くことができ、師弟は手を取り合って下山の途につきました。常に道満が先導して尾根沿いに降りていくと、雲を従えた冨士、銀の蛇を思わせる笛吹、重畳の大菩薩、金峰山や八ヶ岳の山々が次々と展望されます。ふと気づくと道満の姿が見えません。青年僧は不思議に思い、「道満、道満」と呼びながら界隈を尋ねましたが、道満の行方は杳として知れません。精根尽き果て草原にまどろむと、道満が夢に現れ「ここを下った里に霊仏がある」と告げて、消えてしまいました。青年僧は奇異の念を感じ、尾根を下っていきました。
 徳和の里に入ると、古い毘沙門天がありました。配すると厨子が自然と開き、本尊を拝んだところ、道満の顔に瓜二つでした。そればかりでなく与えた袈裟を掛け、柿の種が厨子の中に散乱していました。青年僧は感得しかたじけないこと、と報恩の浄行を七日間続けました。この青年僧こそ後の高僧、夢窓国師疎石だったのです。
(「吉祥寺略記」山口皓亨氏)

 ほぼ同様の話が「金の鳥の行方」にはもう一つ「ドウマン小僧と八右衛門屋敷」の名で載っている。夢窓国師が「ドウマン」を大声で探したあたりの峰を現在でも「ドウマン」と呼んでいる、との地名起源が加わっている。また、本尊の傍らにあったのは柿の種ではなく、ドウマンが食べたはずの百個の柿であったことになっている。そして毘沙門堂を去った後の夢窓国師の話があるので、その部分を以下に記す。

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