天神祭







一月二十五日は、天神祭が行われる。祭りのことをオテンジンコー(お天神講)ともいっている。子供が主体となった行事である。
天神とは、平安時代の貴族である菅原道真を神格化したもので、彼が学問に優れた人物であったところから学問の神様としても親しまれている。子供達が行事の主体となるのは、天神の学問神的側面が強調された結果だと考えられる。だが、三富村域の天神講の内容をみると、祭りの花飾りやオブッコミに類した各戸訪問を行う点など、小正月行事と非常に似た要素を持つ。この点が他地域の天神講とやや異なっている。
徳和の天神祭は特に有名である。親玉、子玉と称する上級生が中心となって準備を進める。天神社にお参りしたあと、華やかに飾った数台の山車を引っ張って村中を練り歩く。子供達は水色の法被を着て、化粧をして神輿を担ぐ。
祭りの準備は、親玉、子玉と称する上級生が中心となって行う。現代であれば親玉は小学校六年生、子玉は小学校五年生の年齢に相当するという。昨今は、子供の数が減少したので、大人達が中心となって準備をするようになった。また、もともとは男の子だけの祭りで、女の子の参加は厳しく禁止されていたというが、これまた、子供の数の減少にともなって、今日では女の子も含めた子供の祭りとして執行されている。
かつての祭日は一月二十四日であったが、近年は二十四日に近い日曜日に実施している。当日の午前中に、万燈に竹ひごを何本も取り付け、それらを造花で飾る。この万燈のことを山車と呼んでいる。午後は、山車を引きながら集落の中を練り歩く。上組の山車と下組の山車とが一緒になって、行列をなしながら練り歩く。
この行事が終わると、子供達は宿(ヤド)に帰ってご馳走を食べ、その夜は全員が泊まる。そして、翌日の夜に上組、下組にわかれてオブッコミを行う。鉦や太鼓をたたきながら、「お祝い申せ~」と唱える。集落の各戸に天神天満宮の御札を配りながら、ご祝儀をもらい歩くのである(平成三十年現在、お祭りの後すぐにオブッコミをし、その後公民館でご馳走をいただく)。
天神祭の準備は、暮れの十二月二十五日頃から早くも始まる。オハツホ(お初穂)である。オハツホは、部落一軒一軒をまわり、お賽銭をもらいに歩くことである。正月二日に、その賽銭で祭りに必要な品物を買いに出かける。購入する物は、色紙などの材料である。かつては塩山市や山梨市の店まで徒歩で出かけていったという。半日以上費やしながらの往復の道筋は、世間を知るいい機会になった。
正月四日から祭りの本格的作業が始まる。宿に連日集まり、造花、太鼓のバチ作り、天神社の清掃、凱旋門作りと忙しく働く。宿は、上下組別々である。天神社は徳和地区には二社建立されている。乾徳神社境内に上組の天神社、下組の天神社は諏訪神社境内に鎮座している。それゆえ別個に祭りは準備される。
宿は、通常はおやだまの家になる。すなわち六年生の子供の一人の家が、宿になるわけである。その宿で毎晩、おやだまの号令で子供達は造花作りである。山車に付ける色紙の花作りである。一つの山車に千個ほど必要である。各宿で二千個の造花が必要になるわけである(今日では子供が少なく、作るのに難儀するので、部落中全戸に花紙80枚を渡し、花作りに協力をお願いしている)。そのため、かつては学校をズル休みしたり、早引けし、先生を困らせたようだ。「天神さんは学問のかみさんじゃ。早引けしたり、ズル休みをするのはいかん」と先生は文句を言ったようだが、大して効果はなかったようだ(上野晴朗「やまなしの民俗」)という。
昼はバチを削り、天神社境内の清掃、さらには凱旋門作りに精を出す。凱旋門とは、社の前に作るアーチ型の門である。材料は竹と杉の枝である(現在は子供の数が少ないこともあり、大人の祭り当番が手伝う。)
祭りの前々日には、山車の組み立てが始まる。このおりには青年会のオワカイシ(お若い衆)が助っ人に来る。山車は万灯である。竹ひごを支柱に二〇数本も刺し、それに造花を飾り付けるわけである。夜を徹する場合も少なくなかったという。子供のために、青年が、大人が、部落中が一丸となっての作業である。
山車の上部にはオシエという人形が飾られる。紙が降臨する依代の場所のようである。オシエは絵のように見えるが、平面の紙に絵を描いた物ではない。中に綿を入れ、立体感を持たせた、糊と色紙で作った人型の人形である。綿は最高の小袖綿を使う。見た限りでは、オシエとは「押し絵」の意味のようにもとれる。
ただし、このオシエを十五歳で青年会入りして以来六十年近く作り続けている名取克己(大正八年生)さんは、この考えを否定する。オシエとは「教え」であるというのである。菅原道真公を祀る天神さんは、読み書きの神である。すなわち学問の神様である。そのご神体を形作ったオシエが「教え」であるという話は、確かに納得性がある。
その名取さんは、子供達が学問に勤しむようにとの願いを込めて、毎年オシエを作るのだが、オシエは顔が一番重要だという。顔の表情でオシエはいきいきするというのである。そのため顔の部分は二つ作り、上手の方を作用するようだ。
もう一つ気をつけることがある。色紙に原色を使うことである。遠くから見てコントラストがはっきりするからである。敗戦直後二年間ほど天神祭は行えなかった。色紙の調達ができなかったことも原因の一つである。復活したおりにも色紙がなく、包装紙などをかき集めて作らざるを得なかったようだ。
今年(平成八年)のオシエは、「童」と「旅芸人」であった。名取さんの奥さんである芙美子(大正九年生)さんは、作り始めると「お父さんご飯にして」と呼んでもなかなか食事をしてくれなくて困るという。そんな名取さんである。ムラの子供のことになると真剣そのものである。菅公さんの教えを守り、オシエのようにだれでもが、いい子になってほしいと切望する。
その名取さんの思いは、オシエを作る真剣な動作を通して無言の「教え」として、子供達に伝わっていく。学問や教育とは何か、学校の専売特許ではない。名取さんのような人々が、地域の中で子供を教育してきたことを、改めて考え直さなければならないのではないか。
徳和の子供達は、その意味で幸福である。子供は家庭のみで育つのではない。部落こぞっての育成である。誰もが、部落の子供の行く末を願っている。天神祭は、そんな思いがしっかりと結実する時と場所なのである。
さて、話を戻そう。山車の完成である。かつては上下組それぞれ数本づつ作ったというが、現在は半数にも満たない。それでも満足感は言い知れぬものがある。東方の空が明るくなりかけた頃、宿から帰宅の途につく。十分に休む暇もないまま、朝食を取り、再び宿に出向く。ホンビ(祭り当日)である。完成した山車を再度点検し、部落の中心にある寺、吉祥寺山門前に集合する。大団扇、神輿、山車、鉦、太鼓などとともに部落中の老若男女が午後一時頃に集まってくるわけである。
集合する前に、神輿には御魂が入れられる。上組は乾徳神社境内の天神社、下組の場合は諏訪神社境内の天神社からである。子供の手によって神輿に入魂され、吉祥寺前に出向く。
上下組が吉祥寺に集合したところで、オネリ(御練り)がはじまる。まず下組の領域を御幸することになる。行列は下組の大団扇、神輿、山車、鉦(2個)、太鼓、山車、その後に上組の大団扇、神輿、山車、鉦(2個)、太鼓、山車と続く。オトビをムコウヨコテ(向う横手)で行い、下組の領域を一巡りし、上下組の境界になる上組道祖神場で休憩にはいる。
しばらく休んだ後、上組の領域へオネリの行列が入ることになる。ここで、上下組の隊列が入れ替わる。すなわち上組の隊列の後に下組の隊列が続くことになる。こうして上組の領域をオネリするわけである。途中で休憩が入り、お菓子、ミカン、ジュース、酒、肴などが振る舞われる。子供達は口いっぱいにむさぼる。さらに乾徳神社手前の棚倉という地名のところでオトビの行事が入る。
オトビとは、御神輿を担ぎ、生きよいよく走ることである。走る距離は三〇メートルほどであるが、その間は脇を振り向かず真剣そのものに走り抜ける。この走りを見て、年寄りは「今年のオトビはいい走りであった」などという。かつては、この走りで、その年の農作物の吉凶を占ったという。
このオトビとは、子供を通しての神の意思表示ということになろう。子供の行為が、神の意志として伝えられる行為なのである。そのために一定の空間が必要になる。その空間こそ、神が至現しやすい場所なのであろう。オトビが行われる場所は、民家が途絶えるところで、集落の境界といえるような場所である。ここにかつての人々は、霊験あらたなものを感じたのに違いない。そこで子供が走り、その走りの中に神の意志を探ろうとした行事なのである。
さて上組の部落をオネリした行列は、上組の辻村の広場に集合、休息をした後、下組の一行は引き上げ、宿に戻る。かつては上組が下組の行列を途中まで見送ったというが、現在は行われていない。宿に戻った一行は、さらに御魂を御神輿から天神社にお戻り願う。
子供は、その後、宿でオヒマチを行う。ご馳走を食べ、ジュースを飲み、ゲームをして遊んだ。その晩は、子供達全員が宿に泊まるのである。子供達だけの世界である。興奮も高まる。翌朝も宿で食事をとり、全員で学校に出かけることになる。親玉、子玉が、下級生を引き連れて行くわけである。
今年後(平成八年)、上組の当番(世話役)であった山中正人(昭和三十三年生)さんは、子供達の面倒を見ながら、かつて自分たちが経験したことを思い起こすという。時代は違っても、同じことを追体験させることで、子供達との連帯感を求めているのであろう。そんな気持ちが、徳和の天神祭を支えている原動力の一つなのかも知れない。
さらに、その晩にも御札配りがあった。二本のマテイ(大きめの灯籠、万灯)を先頭に鉦、太鼓を打ち鳴らしながら、上下組別々であるが、各戸をまわり「お祝い申せ~」などと唱え、祝儀を所望するのである。これをブッコミといった。こうして天神祭は幕を閉じる。
この天神講への参加が、ムラの一員となるための、公的な行事の第一歩であった。ここから母親の手を離れ、ムラの同年齢集団と行動をともにしながら、成長していくことになる。この子供の集団には、現代のように小学校児童を対象とする「子供クラブ」のような名称も会則もあったわけではないが、祭りになると集まり、集団で行動した。特に最年長の親玉になると、山車作りの手伝いにくる青年などから酒を飲まされたり、性的な事柄を教え込まれたりした。こうして、天神講の親玉を経て、徳和の子供は大人への道を駆け上がっていったのである。
天神祭について考えること。
私の子供の頃(昭和50年頃)は、親玉と子玉(六年生と五年生)とで、お祭りの山車の飾り付け用のお花や凱旋門の準備を行っていました。
その昔は、子供達だけでほとんど全ての準備及び本番もやっていたのだそうです。
しかし、今現在は、子供がほとんどいなくなり、大人がお祭りの準備及び本番をやっています。
そうした時代の経緯に着目してみるに、徳和の住民やこのお祭りに参加してくださる人々の天神祭に対する取り組みや思い入れについて考察することも、徳和の天神祭を地域文化として考察するにつけて重要なことと思います。
日本のお祭りのなかでも冬のお祭りは、厳しい寒さに耐えながら魂を充実させるという意味から、けがれを落とす禊ぎとしてのお祭りや、炎が主役となる火祭りが行われます。また他方、一年の始まりを祝うために行われます。
徳和の天神祭も、そうした日本の冬のお祭りの部類に属するものと思われます。
江戸時代初期には、儒教、朱子学等の中国伝来の教えに基づいた教育がすう勢を占めていたが、元禄の後には和の文化に根ざした、天神様(菅原道真公)が崇拝されるようになり、そのため天神様を祀った寺子屋が庶民の間に広がってきたという歴史的経緯が天神祭の前提としてあります。
菅原道真公については、醍醐天皇の時代に太宰府に左遷された際に詠った、
「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
という和歌が有名です。
道真公は、その左遷の後、2年あまりで亡くなるのですが、亡くなった日が2月25日、左遷された日が1月25日、誕生日が6月25日ということで、天神祭も25日に行われることが多いようです。
徳和の天神様は特定の神社に祀られておらず、天神講という形で生まれたものと推察されます。ちなみに、徳和の人々は、天神祭のことを「お天神講」とも呼んでいます。
徳和で生まれ、徳和で育った、名取元治(もとはる)さん(2015年当時85才)と名取義享(よしたか)さん(同81才)から以下のお話を聞いています。
天神祭には「お宿」があり、小学校六年生の親玉の中の長男の家で宿をやり、お祭りの準備や祭り当日の山車作り、お祭りの後の食事などの打ち上げを、このお宿でやっていたそうです。
準備としては、山車につける花を2000個以上作り、太鼓のバチ、鉦のバチまでも作っていたそうです。それでも、お祭り当日の山車の準備などの子供だけでは難しいところは、青年と呼ばれる中学生~25才位のお兄さん達に手伝ってもらっていたそうです。
お祭りの日、つまり1月24日は、先生達は「天神様は勉強の神様なのに勉強しないで早引きするのはおかしい」と言って、徳和の子供達をなかなか帰らせてくれなかったのだけど、「徳和の子供はすぐ準備をして帰れ!」と青年達が子供達を小学校まで迎えに来てくれたそうです。
徳和の天神祭の起源について、徳和の人が四国の方へ出かけたときに、天神祭を見て徳和でもやろうということになったという経緯を、義享さんは聞いたことがあるそうです。
天神祭は、もともと男の子だけのお祭りだったけど、子供の数が減ってきて、30年ほど前から女の子も参加できるように変わりました。その後、それでも人数が足りずに、徳和に縁のある人たちの子供も参加するようになりました。このように子供自体いなくなってきたので、宿もなく、今では大人達が主体となって、公民館で祭りの準備などを行っています。
現在、カメラマンの方に大勢来ていただいているけれども、それは天神祭が三富村指定文化財になって、ラジオやテレビで報道されるようになってからで、昔は外部の人は一人もいなかったそうです。
お祭りの日も、1月24日ではなく、この日に一番近い日曜日にやるようになってきました。
また、お祭りの後に各戸に行う「ぶっこみ」もお祭りの翌日の夜に行っていたが、今ではお祭りの後すぐに行うようになりました。
子供達の化粧も、昔は鼻筋に白い線を入れるだけでした。その後故名取克己さんが、歌舞伎風の化粧を子供達に施してくれていた時代が続き、現在も引き継がれているそうです。
御神輿も最初は上組がかつぎだし、下組は元治さんが子玉のときに作ったそうです。
山車に飾る花は、昔は車花や三角花もあったそうです。
折って作る花も、昔は梅の花びらと同じ5枚だったけど、いまではよりきれいにみせるために8枚で折っているそうです。
昔は、子供達が、お宿に、茶碗と米と小豆を持っていって、子供達が食べる食事を作ったそうです。
昔は、お祭りが終わると、親玉、子玉が四年生以下の男の子を、太鼓と鉦を鳴らしながら迎えに行って、宿でご飯を食べたりトランプをしたりして遊びました。その晩親玉と子玉は宿に泊まり、翌朝は再び四年生以下の子供達を迎えていき、朝ご飯をみんなで食べました。結局親玉と子玉は持っていった米と小豆がなくなるまで宿に泊まり続けたそうで、本当に楽しかったそうです。
昔、お祭りの準備の買い出しは塩山の天神堂まで子供達だけで行ったのだけど、都会に行くみたいでとっても楽しかったそうです。
戦争中もお祭りはやったけど、花を折るための色紙が不足した記憶があるそうです。
子供達が減ってきて、天神祭がどうなるか心配だが、天神祭はずっと続けていってほしいとのことです。
東京在住(山口県下関市出身)の金子さんのお話
平成12年頃、国土交通省の仕事で山梨に来た際に、笛吹川温泉座忘で徳和の天神祭りのことを聞き、また徳和の人が作ったホームページをみて、徳和の天神祭の撮影に行こうと決意されたそうです。そしてそれから、毎年徳和の天神祭の撮影をされているそうです。
金子さんは、徳和の天神祭について、その成り立ちや、祭りに人がどう関わっているか、山車の構造、組み立てに興味を覚えていて、そのため祭りの準備やおぶっこみなんかが面白いと感じているそうです。
撮影当時は、お祭りだけでなく、徳和の老人と子供、大人と子供、青年と子供といった関係がすごく魅力的に感じており、近年子供がいなくなって、そういった子供達が築く関係が切れようとしていることが寂しく思うとのことです。
なので、外から来る子供達の協力という形であっても、その子供達が大人達と築く関係を学ぶ場になってくれるとよいと思っているとのことです。
そうして、昔のように、たくさんの子供達が主導する昔ながらのお祭りの形が復活するのを密かに望んでいるそうです。
徳和の天神祭を調べていると、このお祭りの目的はいろいろなことを学べるお祭りとして作られてきたことがわかります。きっと最初のうちはもっと単純なお祭りだったのだろうけれども、これだけ複雑なお祭りの仕組みを築き上げるには、少しずつ手を加えて改良していった過程があるのだと思います。
例えば花山車にしても、花をより綺麗に見せるために、山車の中間に部材が加えられていったという経緯があるのではないかと思えます。また花自体も近年は三角花だったものが、今では色花紙になっています。
こういったところに着目して徳和の天神祭をみていくと、実に興味深い事実がみえてきて、このお祭りへの理解が深まるだけでなく、さらなる興味を沸き立たせてくれるそうです。
これが、このお祭りの本当の魅力だと思いますとお話をいただきました。
<天神祭、今と昔>
・少子化により、親玉、子玉がいなくなり宿もなくなった。
・男の子だけのお祭りに女の子も参加できるようになった。
・小学生が主体のお祭りだったが、中学生も参加するようになった。
・子供が主体のお祭りだったが、大人が主体のお祭りとなった。
・法被の色が上組と下組で違う色になった。
・お祭りの日が1月24日から、24日に一番近い日曜日となった。
・おぶっこみの日が祭りの翌日の夜から当日のお祭り後に変わった。
・お祭りの後と翌朝のおひまちがなくなった。
・太鼓のばちは毎年つくらず、使っていたものを続けて使うようになった。
・カメラマンが大勢来るようになった。
・化粧をしっかりするようになった。
・お練りの途中、御旅所で辻祝いの休憩をするときに、みかんや煮干しが参加している人たちに配られるようになった。
・山車のお花に使う花紙が5枚から8枚になった。
・昔は、子供達がこの天神祭に参加するということが、徳和部落の一員となるための公的な行事的な側面があったが(母親の手を離れ、村の同年齢集団と行動を共にすること)、今はこのような意識はない。