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徳和の地域社会

 三富村の他の部落が、笛吹川沿いの地に点在する中にあって、徳和のみが笛吹川の支流である徳和川の上流にある。そのため他部落から隔絶した感があり、まさに地名の起こり「徳分」にふさわしい集落である。ちなみに徳分とは、荘園領主や地頭などが得る収益のことで、隠し畑などをさす。徳和はまさに隠し畑に都合のよい地形といえよう。集落へは、徳和川沿いの道を2,3キロメートルほどさかのぼるルートのほか、徳和峠を越えて下釜口へ出る北側ルートもあった。このルートは裏参道、浄の坂道ともいわれ、峠の頂からは笛吹川沿いの三富村の村々を見ることができる。この道をかの弘法大師も辿ったという。またムカサさんが逃げ帰った道でもあるという。ムカサさんとは、旅の僧であったが、人相書きの悪人と思い込んだ村人が誤って煮粥を投げかけ、火傷をさせ、ついには死に至らしめた人物である。このおり、ムカサさんは必ず祟ってやると言い残したというが、この祟りのためか徳和では三のつく年月日にはムラによからぬことが起こっているという。この僧の悲劇も、情報の閉ざされた空間であるが故に生じた出来事といえなくもない。この空間は徳和の人々の気質をも示したようである。徳和の人々は、「孤立的な生活が長い間に住民を意志の強い妥協性のない気質に育て」(「甲州夏草道中記」)たという評価もある。その一方でムラ独自の文化を育てたことも、この閉ざされた空間と無関係ではあるまい。近隣に知れ渡っている「徳和歌舞伎」もそのひとつであろう。熱心な有志によって支えられ、農民に娯楽を提供してきた。
 また、生活習俗や社会構造も、他の部落とは少々異なった特色を持っているといえよう。それは自然環境に依るところが大であるが、それとともにムラの寺である吉祥寺の影響力を過小評価するわけにもいくまい。
 まず集落からいって、寺を中心に開けたようで、かつての寺の建立場所であった東地区から西地区へと拡大したといわれている。移転後の現在の寺地は、ムラの中心にあり、そこの境内には新羅三郎義満の手植えと言われている新羅桜がある。桜は山梨県の天然記念物に指定されており、四月下旬の開花期は寺の祭りである毘沙門天祭りで多くの見物客を集めている。
 吉祥寺のご本尊は、毘沙門天像である。この像の総身は八寸(24.2㎝)ほど、平安末期から鎌倉初期の作だといわれている。この像を巡ってこんな伝説がある。毘沙門天を篤く信仰していた秩父入道一乱が、この像を手元に置きたく雁坂峠を越え徳和に攻めてきたという。すると毘沙門天の化身が無数に門前に現れ、どうしても寺に入ることができなかった。そこでやむあく引き返すおり、寺の堂宇の鰐口を熊手の先に引っかけて、秩父に持ち帰り、一乱寺に奉納したという。鰐口は再び吉祥寺に戻るが、「寿永三年霜月」の銘があるという。西暦1184年、平安末期ということになる。
 その毘沙門天のため、徳和では長く墓地を造らなかった。毘沙門天が忌むためで、そのため墓参りの慣習がなく、孟蘭盆会もなく、精霊棚も作ることがなかったという。埋葬は土葬で、畑や空地のすみに埋めたようである。しかし維新後に共同墓地を造り、現在はそこを使用している。しかし現在も盆行事は
なく、墓参りといえば、寺の位牌へお参りをすることになっている。
 またムラ全体の禁忌として百足の殺傷を諫める伝承が存在する。ムカデは吉祥寺の本尊である毘沙門天の化身といわれている。そこで殺してはならないわけである。見つけたならば、箒にたけて(乗せて)逃すように言われてきたという。
 それ故か、寺の関与するムラ行事は少なくなかった。氏神社である諏訪神社の春と秋の例祭には、かつては住職が祭司となっていたようであるが、現在は甲州市の菅田神社の神主が行っている。それでも霜祭や風祭は住職が祭主をつとめている。
 さて、この徳和のムラの起こりであるが、すでに鎌倉時代末期に夢窓国師が同地区のことを記している。それによると乾徳山の洞窟で面壁修行をして国師が下山のおり、空腹で倒れると同地区の名取八右衛門が、粥を進ぜたというのである。すでにその頃には人家があったとみてよいであろう。なおその家筋にあある名取甲記宅では、作物禁忌があり、キュウリとゴマ作りが避けられている。理由は不明であるが、その代わりエゴマは作ることが許されているという。またニワトリも飼うことが禁じられているという。
 江戸期には、柳沢吉保が入府(宝永二年)するまでは幕府直轄地、柳沢吉里が大和郡山に転封(享保九年)された以後は田安領となった。明治維新後は、下釜口村、下荻原村と合併し、釜和原村となり、さらに三富村となるわけである。
 大東亜戦争以前は雑穀中心の農業経営がなされていたが、戦後は換金作物に重点が置かれるようになり、戦前からの養蚕の他、コンニャク、ホップ、トマトが主に作られるようになった。なお、かつては煙草生産も行われていた。林業は環境に適し、材木、薪、炭の生産が盛んであった。
 その徳和に大きな変化をもたらしたのが、バスの乗り入れであった。1955年(昭和30年)のことで、それ以後急速に部落は開け、徳和の習俗は失われていったと言えよう。
 徳和川の右岸の門河地区は、日照時間が少ない故半日村ともいわれてきた。

正月の準備
 正月用の餅は十二月二十八日か三十日についた。二十九日はクモチ(九餅=苦餅)といって忌まれた。トシガミ(歳神)などの神々に備える餅を最初に作り、この餅をオソナエ(お供え)と呼んでいる。残りはのして切り餅にする。そのほかに粟餅、黍餅、コブ餅(青のり、大豆や落花生を混ぜたもの)などがあった。
 しめ縄や松飾りは三十日にすることが多い。十二月三十日のことを松飾りとかオマツヘイシ(お松はやし)と呼ぶ。やはり、餅つき同様に二十九日は嫌われた。
 しめ縄は木槌で叩いていない生藁を用いた。神の依り代とも信じられていたため、叩くという行為を嫌ったのであろう。松は切り出した枝を用いることが多い。松かさがたくさんあるものほど、金が貯まるといって喜ばれた。年内に不幸があった家は正月飾りをしない。
 供え物は、トシガミの他に、神棚、仏壇、屋敷神、水神、便所、コウジン(かまどの神)、恵比寿様、大黒天、土蔵の中、農具、味噌桶などにも餅を供えたり、松やオシンメイを飾り付けた。

元旦のうどん食
 元日の朝に、長生きするようにとうどんを作って食べる習わしがあった。煮立てたお湯に、生のうどんを大根を細く刻んで入れて食べた。太く長く生きることを願うのだといったり、ツルツルカメカメ(つるつる噛め噛め=鶴鶴亀亀)で縁起がよいのだともいう。
 最近ではうどんをやめて雑煮に代わってきている家も多く、餅食を忌避していているわけではない。元日のうどん食は、甲府盆地に広く見られる食習慣であることが知られているが、とくに峡東地域に濃密な分布を示している。

 

節分
 鬼の目になぞらえて目籠を竿の先にかけて立て、それに豆をぶつけた。豆まきのときは、「福は内、鬼は外、鬼のめんたまぶっつぶせ」と大声で唱えながら、目籠にぶつけた。
 同日、鰯の頭と尾を二股の木の枝に刺し、害虫の名を呼び、唾を吐きかけながら焼いた。これをクチヤキ(口焼き)と言った。クチヤキの鰯は枝に刺したまま、家の大戸(入口の戸)にかかげて疫病除とした。徳和ではジグ(あぶら虫)のクチヤキと称して、ジグを火であぶって入口の戸口につるした。そうしておくと、鬼が来たときに「自分より強いのがいるのか」といって、びっくりしていつの間にかいなくなってしまうと伝えている。

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