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 乾徳山は標高2031メートルで、硬質の変質安山岩からなります。

​ 徳和集落(標高830メートル)と大平牧場(標高1300メートル)の二つのハイキングルートがあります。

 徳和から登ると、先ず尾根道を蛇行して錦晶水、国師平、扇平、障子岩、髭剃岩、雨乞岩を経て、鎖場を通り山頂の岩場に達する。山頂から西側は数十メートルの絶壁である。山頂付近は岩場で狭く、急峻であるため足元に十分注意することが大切である。

 また視界360度で北に黒金山、奥秩父連山、南に御坂山地、富士山、東に大菩薩峠、西に八ヶ岳、南アルプスを一望することができる。

 山頂を極めると十分に高山気分にしたることができる。中央線の近くの山で、このような山岳気分を味わうことのできる山は他に例を見ない。すばらしい山である。「日本200名山」(昭文社)の一つに数えられている。

 大平経由コースでは、大平まで車道が開けているので登山時間を短縮することができ便利である。帰路は山頂から北側をおりて迂回路を利用するとよい。

​ また歴史的には夢想国師の修行した霊場とされる岩窟は、山頂より数町下る懸崖にある(最近発見され、TV放映もされた。)。

                          三富村史 上巻より 


塩山市藤木の「乾徳山御殿名称図」

 塩山市藤木で「乾徳山御殿名称図」が発見され、乾徳山恵林寺の関係資料と思われるが、定かではない。ただし印は現在徳和の氏子総代が使用している印に相違ないので、徳和と何らかの関係があったと思われる。

夢窓国師と乾徳山
 乾徳山は夢窓国師が開創した恵林寺の山号である。その関係について、言文二年(1737)の「甲州徳和郷徳和山吉祥寺畧記」(徳和吉祥寺蔵)には木版で残されている。この木版は境内にある毘沙門堂が永年の風雪で破損したため、檀越の寄付を受けて堂宇を再建し、それを記念して毘沙門天像を開帳した元文二年に作られ、信徒に配布されたものである。吉祥寺ではこの毘沙門天像を行基作と伝えている(文化四年五月吉祥寺由緒書案)。
 この木版の文中には毘沙門天の由来と武田信玄による再建話とともに、夢窓国師と毘沙門天との出会いの話が記されている。
 ある年の夏、乾徳山で座禅修行していた国師のもとに一人の異人が来て修行せんことを請うたので、これを許し道満の名を与えた。九旬(90日)の修行期間を終え、下山途中毘沙門天が安置されているのを聞き、国師ヶ堂に参篭すると、厨子の扉が自然と開き、像が現れた。その像は国師が道満に与えた袈裟を身に着け、容貌も道満そっくりであったので、道満は毘沙門天の化身であったことを知ったというのである。
 乾徳山周辺には国師にまつわる伝説が多い。
・国師の修行にちなんで名付けられたという地名が、山中に座禅石、硯石、枕立、手水石、扇平、休息石として残る(「甲斐国志」古跡部)。
・笛吹川を見て、「山おろし雪のしら波ふきたてて、ねとり流るる笛吹の川」と国師が詠った。
・徳和にある八右衛門屋敷は、修行を終え下山途中に突然立ち寄った国師を快く接待した八右衛門の住んでいたところで、恵林寺開創にあたり、国師は一室に八右衛門座敷と名付け、その恩に報いた(「三富村の文化財」とうに収録される地元の伝説)。
 また恵林寺が乾徳山を山号としたことによって、夢窓国師との関係が強く意識されたことは間違えない。同寺は夢窓国師の後も、古洗印元、明叟斉哲、竜湫周沢、絶海中津等の名僧が住持し、東国における夢窓派の拠点として大いに栄えた。

 夢窓国師は伊勢の人であるが、甲斐との関係を「夢窓国師年譜」を中心に追ってみる。
 健治元年(1275年)に生まれた夢窓は、一家が甲斐に移住したため平塩寺(廃寺、現在の市川大門の平塩岡にあった寺)で出家した。その後、奈良、鎌倉等で修行し、嘉元三年(1305年)、甲斐に帰り浄居寺(現在の牧丘町の城古寺にあった)を創建した。牧荘主の招きによるもので、荘主は二階堂道蘊のことといわれる。応長元年(1311年)のは類は新たに竜山庵を造って隠棲する。同庵があったといわれるところは現在甲州市塩山下柚木の山中に残るが、夢窓を慕って集まる僧が多く、周囲に集落ができるほどであった。これを嫌った夢窓は浄居寺へ戻り、牧荘の領主二階堂道蘊の請いにより恵林寺を創建した。その後も鎌倉との間を行き来するが、元弘三年(1333年)三月に瑞泉院(鎌倉)に移って以後、甲斐に入国した形跡はない。
 この間、夢窓国師が三富地域と関係を持ったかどうかについてのはっきりした記録はないが、「夢窓国師御詠草」には、次のような記事がある。
 「甲州河浦と云所に、山こもりしておはしましける庵の庭の雪むら消て、人のふみたるに似たりけるを御覧して、我庵を とふとしおなき 春の来て 庭にあとある 雪のむら消」
 また、「御詠草」にはもう一首甲州で詠んだ和歌が掲載されており、「甲州ふえふき河の水上に住み給ひけるころ」として、
 「流れては、里へも出る 山川に 世をいとふ身の かけはうつさし」
 とある。ここでいう笛吹川の水上が竜山庵のことか浄居寺のことか、あるいはまた三富地域の別地をいうのかは判然としないが、「甲斐国志」はその場所を乾徳山とする説を紹介している(古跡部)。

         

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