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どんどん焼き

​~道祖神祭り~

 道祖神は、サエノカミ、ドウロクジン、猿田彦などともいわれ、部落の入口や中心の辻に座して、村に侵入する疫神悪霊などを防ぐ神だといわれている。また、道や辻は人の往来が繁く、人が集まる場所であるため、そこに鎮座している道祖神は、人の運命を知り、縁を結び、また子供の遊び相手になる神だとも言われる。さらに、徳和では道祖神さんは祟り神さんだという人もいる。ブクのおり(身内に不幸があった1年間)、どんどん焼きに出かけた人が川に落ちて死んだ、などという話も残っている。それ故道祖神祭りの世話をするヤド(宿)となると気苦労が大変である。だがその反面気が張るためか、病気がちの人でも病にかからなくなるという。
 道祖神の祭礼は、どんどん焼きといわれ一月十四日の晩に行われる。前日までに道祖神場にオコヤを作り、ヤナギを立てる。その脇に部落各家から持ち寄った門松をはじめとする正月飾りをうず高く積み上げる。それを道祖神場で燃すわけである。どんどん焼きの火でマユダマ(繭の形をしたお団子)を焼いて食べると風邪などの病気にならないなどといわれている。
 徳和の名取春子さん(大正14年生まれ)が江戸後期の嘉永生まれの祖父から聞いた話が残っている。
 「お大尽の娘が、大変馬をかわいがっていた。ある日、継母がどんなものを食べさせているのかと、馬小屋をのぞくと、娘が馬の胴体の下敷きになり、馬と仲良くしていた。そこで娘と馬の仲を引き裂くために、馬の胴体を切り裂いてしまった。すると胴体から、小さな蛆がいっぱい生じた。そこで竹藪に捨てると、蛆は桑の実を食べさらに大きくなった。継母は気持ち悪くなり、集めて船に乗せ川に流したが、その蛆は戻ってきて庭で桑を食べてさらに大きくなっていった。やがてムズヤで白い繭を作るようになった。娘は、継母の仕打ちにもかかわらず、その糸を紡ぎ、継母に恩返しをしたという。そこで道祖神さんにマユダマ(繭玉)団子を飾るのだという。」
 三富村の中でも、徳和の道祖神祭りは、県下に知れ渡っている著名な祭りである。江戸時代より続いていると言われており、以前は十三歳以上の男子と青年会が中心となって実施してきたが、若者人口の減少により、現在では大人達が当番制で行うようになった。
 徳和の道祖神は、部落内に二カ所、上下組に分かれて祀られている。上組、下組の道祖神は、ともに下組の地域内にあるが、なぜ下組の地域内に両方ともに鎮座しているのか、道祖神が上下二組に分かれたことを示す文書(安政四年)がある(上野晴朗「やまなしの民族」)。
 またこの文書は、上組の若い衆が他部落(下荻原)の若者を動員して、下組に殴り込みをかけた様子をも伝えている。
 部落が拡大したために分祀された上組の道祖神は、一度上組内の横手に鎮座されていたようだが、火事などが起き、そこで現在地に移したようである。そのために上下組に抗争が起きたのではないだろうか。現在の上組が祀る場所が、本来分祀する前のトクサの道祖神が祀られていた場所であろう。事実、上組と下組の道祖神場は距離的にも100メートルと離れていない。なにか紛糾の結果、現在のような結果になったのではないだろうか。伝承では上組の道祖神が上組の領域内にあったとき、どうも火災やよからぬことが生じたために再び元の位置に戻したようである。それで今日でも下組の場所にあるということのようである。
 さて、それはともかく徳和の道祖神祭りは、暮れの十二月からはじまる。費用の徴収からである。マユバツ(繭初)と称して各戸から寄付を募る。養蚕成功の祈願を意味する奉納金であるという。新年一月二日に、祭りの当番が宿に集まって正月料理を食べる。このときに祭りの規約を読み上げ、規約に基づいて実施することを確認する。宿は四年ごとに選挙で定めることになっており、宿では道祖神のオタマシイ(お魂)を保管することになっている。正月11日(現在は14日)のオミキゼンと称するカミアツメ(紙集め)で、オコヤの材料、薪、金銭などを集める。十四日の朝が、オコヤヅクリ(御小屋作り)とオヤマタテ(お山立て)である。早朝(5時頃)、ソーバン(双盤)と呼ぶ鐘の音を合図に道祖神場に集合する。道祖神場の清掃をした後、御神酒を飲みながら役割分担を決めて、祭りの準備に入る。仕事は、小屋係、宿係、もしき集め係などに分かれて行う。御小屋係は、道祖神のオコヤを作る。下組のオコヤは麦殻(平成30年現在、茅)で、上組は杉の葉で作ることになっている。オヤマは、青竹にオコンブクロやオシンメイなどを飾った。またかつてはオジョウモン(娘衆)が作った巾着を飾った。オジョウモンは密かに心を寄せる青年のために夜なべ仕事に精を出し、巾着を縫ったものであるという。
 宿係は、シメ縄、短冊、御札など、祭りの飾り付け作りが中心である。もしき係は、どんどん焼きで燃やす薪類を集める。以前はもしきといえば麦殻や豆殻が多かったが、現在では薪となった。
 祭りは、まずご神体の移動、どんどん焼き、オコヤバライ(御小屋払い)、オブッコミ、ツジイワイ(辻祝い)と続く。
1.ご神体の移動
 祭りの当番は、上組、下組ともに四名ずついる。夕刻(六時頃)、日が沈むと祭りが始まる。当番が宿に集まると、宿に保管されている二体のご神体(これをオタマシイと呼ぶ)を道祖神場に運び出す。一体は宿の主人が懐に、もう一体は親戚の者が懐に入れて運び出すのであるが、その際、当番は面箱と鼓を持ち、マテイを先頭にソーバンや太鼓と一緒に、それぞれの道祖神場に向かう。これをご神体のオブンダシ(負ぶ出し)と呼んでいる。運ばれてきたご神体の石は、オコヤの中に安置する。
2.どんどん焼き
 オコヤの前では、大きなどんどん焼きの焚火が始まり、村人達が正月飾りや書き初めを燃やしたりする。どんどん焼きの炎が夜空に高く上がり、集まった人々が太鼓やソーバンを打ち鳴らし江、祭りの雰囲気を盛り上げる。村人全員が集まった頃を見計らって、当番は「だれだれさんに、オハナいただきやしたー」と、奉納されたご祝儀を紹介する。紹介があると、まわりの人々が「おめしとう」と叫ぶ。一通りの披露が終わると、オコヤバライとなる。
3.オコヤバライ
 オコヤバライの前に、二体のご神体を取り出し、宿に持ち帰る。その後に、オコヤに火入れをし、適当に燃え広がったところで、どんどん焼きをしている場所に引っ張っていく。これをオコヤバライという。この火で団子を焼いて食べると一年間健康に過ごせると言われ、競って団子を焼く。
4.オブッコミ
 これが終わると当番より挨拶があり、オブッコミの家を紹介する。オブッコミとは、当番を先頭に太鼓やソーバンを持った集団が、祝い事があった家に押し入ることをいう。オブッコミとは、「ぶち込み」の意味で、福の神である道祖神の訪問を模倣した習慣であろう。前年に結婚したり、新築をしたり、あるいは当年に厄年を迎える家などにオブッコミが行われる。座敷に土足のままで上がり、賑やかにお祝いをする。
 当番は奥の座敷にすすみ、床の間に面箱、鼓、弓張提灯を置く。すでに用意してある膳について、新婚の家では花嫁の勺でご馳走をいただく習わしになっている。これをオセワヤキ(お世話やき)ともいう。この間、太鼓やソーバンを打ち鳴らして祝いを盛り上げる。以前は、この場で三番叟を舞ったが、今では舞う者がいないのでやっていない。
 オブッコミは当番だけでなく、青年や子供、年寄りなども加わって大行列をなす。オブッコミの最中、当家より同行の人々に御神酒やつまみ、ミカンなどが配られる。最後に当家よりご祝儀とミカンを箱でいただく。代表者が「オハナいただきやした~」と紹介すると、みんなで「おめしとう」と応え、次の家に向かう。
 オブッコミの順路は、上組、下組ともに昔からそえぞれに決まった道順があり、それから外れることはないという。オブッコミが終わると宿に帰り、そこでまたご馳走をいただく。以前は、祭りの運営について上役からお叱りを受けることもあった。すべてが終了するのが、夜中の一時、二時ころであったという。
 このときに、上組、下組両組の面箱を持ち寄って床の間に飾り、御神酒を供えた。しかし戦後しばらくした頃、酒を飲んでけんかをし面箱を壊してしまったことがあったので、それから面箱を持ち寄らなくなった。
5.ツジイワイ(辻祝い)
 前年に婿をもらって嫁がいないときには、代替えとしてツジイワイを行う。ツジイワイとは、村中の大きな辻で太鼓やソーバンを鳴らして御神酒やミカンを配ったりすることをいう。

 以上を簡単に説明すると、夕刻、オコヤを燃やすどんどん焼きが始まる(オコヤバライ)。その後、繭玉(団子)を、どんどん焼きの火で焼いて食べる。こうすると病気にならないといわれてきた。鉦と太鼓が鳴り響く。オブッコミもはじまる。オブッコミは各家をまわり、五穀豊穣、養蚕豊作、家内安全、無病息災などを祈願し、祝儀をいただく。祭りの興奮は高まる。
 それゆえか、道祖神祭りは一月のみの一回では終わらなかった。夏の暑い盛りにも行われた。徳和では、八月一日が道祖神の夏祭りである。当番が朝から集まり、道祖神場の清掃をし、オヤマ飾りを作り、しめ縄を張ったりする。オヤマは、長い竹の枝に色紙の短冊で飾ったものである。こうした準備は、以前は青年会がやっていた。この日は集落の農休となっており、特別な行事はない。当番は宿でご馳走を食べる。

 道祖神祭りは、また小正月の行事でもある。一月十三日に米粉で団子を作り、山から伐採してきたダンゴバラの木(ヤマボウシ)に挿して飾った。この飾りをマユダマ(繭玉)と呼んでいる。団子の形が蚕の繭に似ているところから命名されたのであろう。
 繭形のほかに、干し柿やミカン、野菜、鍋釜の蓋の形をした団子を挿すこともあった。枝は天井につるしたり、柱に縛ったりした。この団子をどんどん焼きの火で焼いて食べると、虫歯にならないと言い伝えているところは多い。マユダマは養蚕だけでなく作物の豊作を、また虫歯は病気を象徴したものであろう。
 どんどん焼きは、どんど焼き、おどんど焼き、おどんどん焼きなどと呼んでいる。祭りは、暦のうえでは一月十四日であるが、おおまかな季節感覚からすると、日射量が最も衰えたと感じられる厳寒期にあたる。しかも、わざわざ満月の前夜を選んで火祭りを行っている点などは、非常に興味深い。季節の変動は太陽の熱量によって左右される。経験的にいっても、太陽と食物の成長とは密接な関係にあるのは理解できる。おそらく古い時代には、生命の根源を太陽の力に求める観念があったものと推察される。それと同時に、太陽が天空を移動し、しかも周期的に盛衰すること自体に神秘的な力を感じ取ったのではなかろうか。再生するであろう太陽に、養蚕や作物の豊作を記念したのであろう。
 どんどん焼きの翌日、一月十五日の朝に小豆粥を食べた。その際、カツノキ(ヌルデ)で作った箸を使う習わしがあった。小豆粥は熱くても吹いて食べてはいけないという。吹いて食べると田植えのときに風が吹くと言い伝えられている。

 

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