徳和の歴史
遺跡
洞遺跡、松原第一遺跡、松原第二遺跡、大久保遺跡、篭作遺跡、徳和遺跡、水久保遺跡があり、縄文時代早期、中期の土器、石器、中近世の陶器、土師質土器片、平安時代の杯の破片などが見つかっている。
徳和の鉱山臼
徳和の吉祥寺付近に、「虚空堂さん」と呼ばれている場所がある。ここに一個の石臼がおかれている。一つしか見当たらないが、形態的特徴から一般的な穀臼ではなく、鉱山で最も普遍的にみられる定形型鉱山臼であり、江戸初期から江戸時代全般にわたって使用されたものである。
この臼の由来は、虚空堂さんを管理している名取力氏が近くの字川窪の地から掘り出したもので、ここに納めておいたものだという。氏の談によれば、四代前の名取次郎右衛門が相模国から来村し、坂本久右衛門とともに村内で金山開発に乗り出して操業を行っていたので、おそらくそのころに使用していたものであろう、とのことである。現在でもそれらの坑道の跡は近在にある。江戸時代末期のことのようである。
屋根替えにおける助け合い
母屋は、百年、二百年の風雪に耐える頑丈なものであったが、それ故手入れも大変であった。屋根は多くの家で茅葺きを用いていた。その茅は、六十年に一度ほど全面的に茅替えを必要とした。さらに、その間にも部分的手直しが必要であった。そのため、茅は大切なもので、各部落毎に共通の茅場を持っていた。
茅刈りの前日、屋根を新しくする家では、部落の家々をまわり「明日、茅刈をするので朝飯前にお頼み申します」と振れまわる。頼まれた家では、早朝早い人では午前三時頃、その家にでかけ、朝飯をご馳走になり、暗いうちに山の中に入る。夜が明ける頃には、茅場から茅を背負い戻ってくる。
屋根を葺く本職の職人を茅職人(屋根屋さん)といった。茅職人は、中巨摩郡の田富町方面からやってきて、屋根屋宿に寝泊まりしてもらい、食事のみ屋根替えの家で取った。
屋根を葺き終わると、完成祝いにダンゴコロバシ(団子転ばし)が行われた。団子を屋根から転がし、下の人々に振る舞った。これは以後丸くおさまるようにとのまじないだという。
徳和の主な神社
乾徳神社
諏訪神社、鹿島神社、赤城神社が合祀
上組天神社、下組天神社
上組山之神、下組山之神
観音堂(二宇)
薬師堂
虚空蔵堂
不動明王
秋葉社
六笠社
住吉社
稲荷社
多賀社
庚申地蔵
佐具志大明神
馬頭観音
蚕影山
地蔵尊
厄除けの信仰
信仰は本来個人の幸せや家の安全を祈願することにその本質があったわけではない。信仰は共同祈願であり、部落全体の生活に大きく関わっていた。三富村各部落においての共同祈願はヒブセ(火伏せ)とフセギに代表される。
ヒブセは道祖神祭りのオヤマコロバシの日(一月二十日)にヤナギを輪にして、各家の屋根や軒先に飾る「火伏せりの輪」がそれにあたる(平成30年現在、天神祭の祭にヤナギを輪にして各家お屋根屋軒先に飾っているが、ヒブセのなごりであると思われる。)。
フセギは、流行の疫病などの邪悪なものの侵入を防ぐということであり、部落の入口に青竹に草鞋をつるしたものを立てる。かつての人々は病原菌も一筋の道をたどって侵入すると考えていたのであろう。この空間的意識は現在の人々とは異なったものであるが、疫病を共同で防ごうとした信仰の現れがフセギに結実したといえる。
夢窓国師と八右衛門
部落に住むきこりの八右衛門は、朝早く芝刈りに出かけて、よれよれの衣服のみすぼらしい坊さんに会いました。「旅の疲れでからだも衰えておりますので、しばらくの間、どうか休ませていただきたい」とのお坊さんの懇願に、八右衛門は快く自分の家へ案内して丁重にもてなしました。
当時このあたりでは米がとれなかったので、粟粥やとっておきの山菜を出して、歓待しました。その時夢窓国師から贈られた象牙製の立派な袈裟の輪は今もなお八右衛門の家宝として秘蔵されています。なおこの時夢窓国師が空腹のあまり粟粥をがつがつ食べたので胃の中で受け付けず、笛吹川に沿う下釜口部落で全部吐いてしまいました。この粟粥がヤマメの体についてしまったので、以来このあたりのヤマメにはつぶつぶが浮き出したように模様がついた、とのことです。
夢窓国師はやがて乾徳山恵林寺を開きましたが、八右衛門の親切を忘れることなく、特に一室を設け、「八右衛門座敷」と名付けてその恩に報いました。この部屋は今でも恵林寺に残されています。恵林寺住職が八右衛門家訪問の際、衣服を改めるための支度寺として「慈光院」という寺がありましたが、明治の初期に取り壊しになり、本尊は八右衛門家で堂宇を建てて、お祀りしてあります。また八右衛門が恵林寺参詣の折りの支度寺は「岩松院」といい、現在も恵林寺の寺内として残っています。(名取竹雄氏、名取八郎氏、名取甲記氏)
六笠さん
あるとき徳和へ六笠某という男がやって来ました。この男はすでにおたずね者として人相書きがまわっていました。広く世間に指名手配され、生け捕ったり、殺したりした者には賞金が出る、ということでしたので、ある家のばあさんが男をことば巧みに家に誘い、いろりのそばに一休みさせることに成功しました。
男は長い道中を逃げ延びてきた疲れが出て、いろり火にあたたまるとほどなく、うとうとしはじめました。親切なおばあさんの言葉にのせられて、すっかり安心しきっていたのでしょう。賞金を稼ごうと目論んでいるおばあさんは、このときとばかり、煮えたぎっている粥を鍋ごと持ち上げると、頭からざあっとかけてしまいました。男は跳ね起きて、「熱い熱い」と泣き叫びながら部落のはずれまで逃げていきました。けれども熱い粥を頭からかけられた悲しさ、身体中大やけどとなり「この部落を黒土にしてやる」とのろいながら、三の橋にたどり着いたところで息絶えてしまいました。
それ以来部落には火事があったりいろいろの祟りがありました。それで、この六笠某の霊を慰め、祟りを鎮めようとした村人は、火の神様である秋葉さんの隣に神社をつくったり、三の橋の近くに卒塔婆を建てたりしたのです。村人はこれを「六笠さん」と呼び、年一回の祭りもにぎやかに、旅人の怒りを静めました。それ以降は徳和には祟りが全く消えてなくなったということです。
現在、三の橋より二〇メートルくらい離れた窪地という地名のところにある宝筐印塔が六笠某を供養するためのものだと伝えられています。塔身の一部分が失われて、他の材質の石で補ってあるが、もともとは鎌倉末期から室町初期のものだということです。
また、この六笠某は承久の変の落武者であったともいいます。(名取竹雄氏、荻原弥氏)
徳和の四羽カラス
徳和には昔から他のカラスより大きいカラスが四羽いる、と伝えられています。普通のカラスは朝どこからか飛んできて、夕方にはねぐらへ帰るのですが、この四羽はけして他所には出て行かないのです。一般的にも、カラスが鳴くとどこかで人が死ぬ、などと言われますが、この四羽カラスは不幸な出来事が起こる前には必ず鳴くことで有名なのです。他のカラスより体が大きく、徳和に住み着いているのですぐわかるはずです。しかし、江戸時代に一羽は漁師に撃たれた、とか、昭和になってから、野犬に食わせる毒を食べて二羽が死んでしまった、という話もあり、結局一羽だけが生存している、ということです。
それとなく毎朝神社の方から飛んでくるカラスを見ていると、それらしい一羽がいます。下から飛んでくるカラスは体が少し小さく、集団できて、夕方には帰っていきますが、一羽の大きなカラスは徳和のどこかに残っているようです。朝早くスポーツ広場の夜間照明にとまり、普段は鳴かないのです。奈良田にいる二羽カラスもここと同様に、他には行かず、何かあるときには鳴いて伝える、ということです。(名取力氏)
この話は「金の鳥の行方」などの文献によるものではなく、村史のために語っていただいたが、現在八十歳以上の徳和の人なら誰でも知っている話だと言う。この中に出てきた「奈良田の二羽カラス」の話は、深沢正志氏の「秘境、奈良田」では、鳴いて不幸を知らせる、と言う話ではない。昔、人間の作物を多くのカラスが食ったので村から追い出されたが、食わなかった二羽のカラスだけが追い出されずに残り、今でも奈良田にはカラスが二羽しかいない、というのである。
また、徳和には、「胡麻をまかない」という禁忌がある。
徳和の三番叟
徳和地区では、三番叟と称する芸能が、昭和三十年代まで伝承されていた。三番叟は、正月十四日の道祖神祭りのとき祭りの宿で演じられた。上組の道祖神帳面箱には、弘化四年(1847)の「式三番伝書 一巻」と、安政六年(1859)正月の日付が入った「大山伝法 三番叟諷本」との二冊子が残されており、この地区の三番叟が幕末から始まったことを伺わせている。
山梨県内では、こうした三番叟が途絶したものを含めて10村12カ所が確認されている。徳和の近隣では、大和村の天目・古部、甲府黒平があげられる。神楽や人形による三番叟をふくめるとそれ以上の数にのぼる。それらの大半が小正月の道祖神祭りに付随して演じられている。作物の豊穣を予祝したり、幸いを招来するための神事芸能として県内で広く行われていたことがわかるのである。
県内各地の三番叟が、いつ頃、どのような経路で伝わったのかについては、不明な点が多い。分布傾向や舞の形態などをみると、県内の村から隣接する村へと伝搬されたものも少なくないと思われるが、やはり源流は専門の芸能人が外から持ち込んだものと考えるのが自然であろう。徳和上組に残る「式三番伝書 一巻」、「大山伝法 三番叟諷本」には、いずれも大山御師の内海平太夫の名があり、伝搬経路を知る有力な手掛かりとなっている。
相模大山の御師は、能・狂言のいずれかを義務として必修させられていたといわれ、彼らは山梨県内の村々に三番叟をもたらした有力な勢力だと考えられている。なかでも内海家は、甲斐国の八代、山梨、巨摩郡に多くの檀家を抱えていた大山御師であった。大山阿夫利神社蔵の門外不出資料といわれる「開導記」を分析した有賀密夫「大山門前町の地理的研究」(1989年)を参照すると、内海家は国中地方の約180村に約6000戸の檀家を保持していたことがわかる。多くの大山御師が関東一帯からその隣接地域を廻国するなかで、甲斐国の国中地方は内海家の独占状態であった。
時期的には、江戸中期以降明治初期頃にかけて想定される。おそらく、県内諸村の檀家を廻りながら種々の神事芸能を披露、奉納していったのであろう。厳かで美しい舞に触れ、興味を持った村民のなかに伝授を請う者もあらわれ、しだいに県内各地に定着し上演されるようになったのではなかろうか。「式三番伝書 一巻」と「大山伝法 三番叟諷本」はまったく同様の内容で、弘化四年と安政六年の日付からして、おそらく前者を書き写したのが後者であろう。また、あら筋や台詞は、大和村天目、甲府市黒平、八代町岡の三番叟と細部においては違いがみられるものの、大筋では非常に近似している。村から村への伝搬なのか、あるいは直接的な伝搬なのかは判断できないが、いずれにしても同一系統の作品だと考えてよかろう。
三番叟とは、もともとは能舞台で上演される「式三番」とか「能三番」、あるいは「翁」と呼ぶ演目の舞いのことを指す。「式三番」は、「千歳(せんざい)の舞い」、「翁の舞い」、「三番の舞い」によって構成され、「翁の舞い」が天下泰平を祈る性格を持つのに対して、「三番の舞い」には五穀豊穣を寿ぐ意味が込められているともいわれる。これに登場する翁や三番の人形が白や黒の翁面を付けて舞う場面があるところから、「式三番」のことを「翁」と称するのである。「三番」の言葉の由来は、三番目に出る翁を意味するというのが通説となっている。
能では、「式三番」は能演に先だって、かならず演じられるものだとされ、能役者の間では能楽の原型として神聖視されている。したがって、古くは能面を付ける者は、一ヶ月以上も前から精進潔斎を義務づけられていたという。能の「式三番」が、その後、歌舞伎や人形浄瑠璃に取り入れられ、それらの上演前に演じられることになった。以来、講演の無事を祈るための、儀式、神事的要素の強い芸能として継承されるこちになったのである。
三番叟は、翁の「とうとうたらり、たらりら、たらり・・・・・」の意味不可能な文句で始まる。神事芸能には、舞台や庭に入って本芸を行う前に、まず門口で予告の芸を簡単に行ったり笛を奏したりする習わしがあり、こうした文句もその名残だと考えられている。
次に、徳和上組に残る「式三番伝書 一巻」、「大山伝法 三番叟諷本」のうち、後者の内容を紹介する。
大山伝法 式三番叟
三番叟諷本 モミダシ
春日大明神 翁
天照皇大神 千歳
住吉大明神 黒キ丈
翁 とうとうたらり たらりら たらり あがり たらりたら
地諷 ちりやたらり たらりらたらり あがり ららりとう
翁 ところ千代まで おわします
地諷 われらも 千秋をむらわん
翁 鶴と亀との いわいまで
地諷 さいわい心に まかせたり
翁 とうとうたらり たらりら
地諷 ちりやたらり たらりら たらり あがり ららりとう
千歳 鳴るは滝の水 滝の水 日は照るとも
地諷 絶えず とうたりや たりありら とうとうとう
千歳 絶えず とうたり 常にとうたり
千歳 (笛間)(鼓間 アイヤアイヤアイヤラヤ)
君の千歳を経んことも 天津おとめの羽衣に 鳴るは滝の水 日は照るとも
地諷 絶えず とうたりやりら とうとうとう(鼓間)
翁 あげまきや どんとや
地諷 ひろわかりや どんどや
翁 座して いたけれども
地諷 参ろう れんげりや とんどや(笛間)
翁 千はやふる 神のひこさの むかしより 久かれとぞ 祝い
地諷 そよやりちや(鼓間)
翁 およそ千年の つるは万歳楽 とうたらり たらり
また 万代の 池の亀は 甲に さんぎよくを そなえたり
渚のいさご さくさくとして あしたの日の色を 照らし
滝の水 れいれいとして 夜月 あざやかに うかんだり
天下泰平 国土安穏 今日の 御祈祷 なり
(鼓間 翁)
在原や 何所の 翁とも
地諷 あれは 何所の 翁とも そやい 何所の 翁とうとう
翁 そよや (鼓間 笛間 鼓間)
千秋万歳の 祝いの舞 なれば ひとさし 舞おう 万歳楽
地諷 万歳楽
翁 万歳楽
地諷 万歳楽
口伝 長久円満息才延命
今日の御祈祷也
三番叟初日
モミダシ (笛間)
おさえ おさえとう 悦びありや
わが 此所よりも 外へはやらじ とぞ思う
黒キ丈 あら めでたきや ものに心得たる 後の太夫殿に ちょっと げんざん申そう
千歳 おう ちょうど 参って候
黒キ丈 誰が お立にて候
千歳 年の頃の ほうばいづれ 友達の 御身なれば あとと おうせ候
ほどに ずいぶん ものに心得 お後の役に たって候
黒キ丈 されば候
千歳 まず 今日の三番叟 千秋万歳 所繁昌と 舞いており そえ色の黒キ丈殿
黒キ丈 おおせの如き 此丈が 今日の三番叟 千秋万歳 所繁昌と 舞い納めようずる事 何より以て 安う候 まず 後の太夫殿には もとの御座敷へ おもおもと 御直り候
千歳 それがし 座敷へ 直ろうずる事 何より以て 安う候
まず 丈殿の 舞いを見候
その後 座敷へ 直ろうずるにて候 ただただ ひとさし 御舞い候へ
黒キ丈 御直り 候へ
千歳 あら ようがましや さらば 鈴をまいらせん
黒キ丈 こなたこそ
(鈴之後鼓あまだれ笛入)
安政六歳 大山内海平ダ夫作
徳和村
上組 道祖神
未正月六日改
以上が、「大山伝法 三番叟諷本」の内容である。
道祖神帳面箱には、別冊の「式三番伝書 一巻」がある。こちらは末尾に「右壱巻は直伝たるもの也 弘化第四未はつ春吉辰 寿若亭 亀道 印(亀の絵)」とあり、さらに裏表紙に「大山 内海平太夫 印」と記されている。筋は「諷本」と同一であるが、翁、千歳、黒キ丈の台詞に読み方の記号が付されているものの、楽器伴奏の指示書きがない。また「諷本」には、舞い手の順路を追加しているのが大きな特徴となっている。
以上の形式的な相異や製作時期からして、弘化四年(1847)の「式三番伝書 一巻」が原本だといえる。徳和の三番叟は大山御師の内海平太夫から伝授されたもので、弘化四年から始まったと考えてよかろう。十二年経た安政六年(1859)に、「大山伝法 三番叟諷本」が作成されるが、事情を推測するに、鼓、笛などの楽器の導入に合わせた諷(うたい)風の台本を必要とするようになったためであろう。